脱毛器を振り返って思うこと
脱毛器を振り返って思うこと
実をいうと、メキシコ債務危機が一九八二年に発生する直前まで、ニューヨーク連銀は毎週、全部はまってしまっただけでなく、中小の銀行を含めたらすさまじい数の銀行が中南米でひっかかってしまったのである。
ちなみに一九八二年当時の大手米銀八行だけで、中南米諸国に対する融資残高は三八○億ドルにのぼっている。
それは彼らの自己資本の一四七%であった。
つまり、その時点で米国の大手銀行は全行倒産していたも同然だった。
そしてこの三八○億ドルを含む合計一七六○億ドルが、すべて実質デフォルト状態になったのである。
これは今の日本と同じようにシステミックリスクである。
個別の少しの部分が腐っているのではなく、銀行システム全部が中南米問題にはまってしまったからである。
この問題が発生し、当時のFRB議長であったボルカー氏がNの前川総裁に応援を求める電話を入れたのは一九八二年八月のある土曜日だったが、その時のボルカー氏の最初の一声は「アメリカの銀行システムは月曜日まで持たないかもしれない」だったという。
そのくらい大変な危機だったのであアメリカの大手銀行の役員を呼び出して忠告していた。
「みなさん、どうしてあんな独裁者がやっている中南米の国々に、そんなにお金を貸すんですか。
インフレ率もメチャクチャ、経済運営も経常収支もメチャクチャだ。
こんな国にお金を貸したら必ず問題を起こしますよ。
早く融資額を減らしなさい」ニューヨーク連銀は、危機が発生する四年も前からさかんに警告を発していたのである。
しかし、当時の米銀の行動は、土地担保で次々と融資を増やしたバブル時の邦銀同様、まったく聞く耳持たずだった。
そしてその背景には、CP市場の発展で、当時の米銀が伝統的融資先(企業の運転資金)を失いつつあったことに加え、当時の米国銀行界のドンと言われたワルター・リストン・シティバンク会長(当時)が、「企業は潰れるが、国が潰れることはない」というかけ声のもとに海外の公的機関への融資を大々的にアピールしたことがあった。
その結果、海外の公的機関への融資は米銀だけでなく、全世界の銀行の間で爆発的なブームとなり、そのなかでも高い金利を払ってくれる中南米が最も注目されたのである。
そのような状況であったから、ブームが去り、本当の債務危機が発生した時、我々ニューョーク連銀の職員はこう思った。
「ざまあみろ。
言った通りじゃないか。
これからあいつらをしょっぴいてやろう。
ニューヨークへ引き戻してリストラの強要だ」と。
ところが、実際に問題が発生した次の日に、ワシントンにいた当時のFRB議長のボルカー氏から直々の指示が入った。
それは驚くべき命令だった。
「とにかく、何としても銀行が中南米から逃げ出す口実を与えてはいけない。
いかなる手法を使ってでも、銀行が中南米に踏みとどまってお金を貸し続けるようにせよ。
銀行が逃げ出す理由を絶対に与えるな」我々は「ざまあみろ、今こそしょっぴいてやろう」と思っていたのに、命令はその逆であった。
我々金融当局者は頭を下げてでも彼らに中南米に踏みとどまってもらえ、というのである。
開いた口が塞がらないという表現があるが、当時の我々にとってこのポルカー氏の命令はまさに青天の解震だった。
しかしその理由はすぐわかった。
一行が資金を回収して逃げ出そうとすれば、みんな一斉に逃げ出そうとする。
そういう状況を許したら借り手側は完全に崩壊し、そうなると貸し手側銀行の大半も倒産しかねない。
それぐらい問題は大きかった。
ここには通常の銀行の問題ではない、大変大きなシステミックリスクが発生していたのである。
それで結局、我々が何をさせられたかというと、アメリカの何百行、何千行ある銀行の一つ一つに、「頼むから中南米から資金回収をしないでください。
我々は運命共同体でしょう?」と言って回ったのである。
我々は腹の中では怒り狂っていたが顔には出さず、一生懸命笑顔をつくりながら一行一行を訪ねて、「ぜひブラジル、アルゼンチンへの融資をよろしく」とお願いしていったのである。
中南米諸国への貸付は全部、不良債権化していた。
しかし当時のボルカー議長は、アメリカにある三つの銀行検査当局に命令して、完全に不良債権化しているこれらの債権を「不良債権ではない。
これは優良債権である」と無理やり押し通してしまったのである。
もしそれを不良債権だとしてしまったら、銀行に「不良債権だから、うちは株主代表訴訟が怖いので、ここで失礼させていただきます」という逃げ出す理由を与えることになる。
逃げるのは自由だから、一行が逃げ出したらほかの銀行もみんな逃げ出そうとする。
そうなれば全体が破綻してしまう。
そうなったら中南米は昨今のインドネシアみたいになっただろう。
アジア通貨危機のインドネシアのケースもまったく同じで、金融機関が同時に出口に殺到したので経済の枠組み自体が崩壊してしまったのである。
実際のところアジア通貨危機、特にこのなかでもインドネシアの悲劇は、ボルカー氏みたいな人がいなかったから発生したとも言えるのである。
同じことが八二年の中南米でも起きようとしていた。
ほとんど超法規的な手段であったが、当時の米国金融当局は中南米向け融資は不良債権ではないということを徹底して、逃げ出そうとする銀行を踏みとどまらせた。
もちろん、その一方では銀行側にモラルハザードが発生しないよう検査体制を総動員して、貸し手と借り手両方の動き、特にキャッシュフローを厳しくチェックした。
実際に当時のニューヨーク連銀は、メキシコと米銀間の最後の一ドルの動きまで把握できる完壁な監視・検査体制を敷いたが、その一方で、米銀経営陣の経営責任は問わなかった。
当局は、米銀がそれまでやってきた問題融資をすべて把握したにもかかわらず、あえてそれを問題にしなかったのである。
システミックリスクが発生していて、全行の協力と団結が必要な時は、そのような高度な判断が必要だったのである。
今の日本でも銀行検査を強化すべきだという声は強く、私もそれには大賛成である。
検査当局が、不良債権の実態を把握していないと外部から思われるほど恐ろしいことはないからだ。
しかしその検査結果を、すぐに経営改善命令や責任追及につなげることには反対である。
システミックリスクが発生している時に、マニュアル通りに行動すると、とんでもない検査官不況や金融恐慌をもたらしかねず、それは最終的に巨額の負担を納税者に強いることになるからだ。
そして当時の米国当局は二年、三年の時間をかけて、借り手である中南米側と貸し手である銀行の両方が安定してから、ブレイディ・ボンドを売却するという手法で、世銀やIMFを中南米諸国の経済運営にかませながら、銀行側はゆっくりと実質的な債権放棄を進めていったのもちろん当初は大きな問題で、大手米銀はほとんどが破綻状態だった。
アルゼンチンあるいはメキシコ一国だけならばいいのだが、なにしろこの時は中南米諸国全部がだめになっていたから、今は元気なシティバンクやバンカメといった銀行も当時は完全に破綻していた。
それを今で言う「護送船団」で乗り切ったのである。
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